ウサギ
初動
散りゆく桜が、普段は見えない風の道を教えていた。風が吹き、アスファルトに落ちた透き通るようなピンク色の花弁は、あっと言う間に通り行く人達に踏みつけられ汚されて、アスファルトを突き破り土に溶けていくようだった。濁ったピンク色を踏みつけて佐久間は一年前の小さなヒビを思い出していた。
桜の歌はいくつあるのだろう。特別音楽に関心がある訳ではない佐久間にとっては、歌などどうでもいい人生だったが、覚えている桜の歌の数を、まだ残されているはずの脳細胞に問いかけている自分の不思議さには人ごとのように気づかないでいた。
ヒビ。いや、それはヒビというよりは落とし穴だ。用意されたその穴に落とされたのだ。その大きく口を開けた漆黒の穴は獲物が近づくのを待っていた。歩みの数歩前に待ち伏せされているとも知らず、いつものように歩いていく道。佐久間のような、人生に幸せも不幸も感じることなく生きてきた危機感のない、目標もない、苦労も知らない真っ平らな男をじっと待っていたのだ。落ちて初めて気がついたその穴の深さは、人生の終わりをうっすらと感じさせるには十分だった。
一億一千万円。残された日数は一週間を切っていた。
仕事上では日々の中、報告書、書類上、データ上、幾度となく見ていたこの単位の金額を、ただ一人の背負うものとして初めて自らの肩に感じたとき、重さというより今まで見ていなかったであろう何百人という顔が浮かぶには遅すぎた今だった。
一代で年商三十億のショッピングセンターを築き上げた佐久間の父は、六十二歳の誕生日前日にこの世を去り、父の後を引き継いだ兄はその二年後、東北道の郡山インター手前二キロのところで家族を乗せた車で事故に巻き込まれ、バラバラになってしまった家族それぞれの遺体は、弔問客の眼に触れること無く消えた。父と兄のレールに乗っただけの佐久間の社長就任については社内でも反対の声が多かった。それも知らずに佐久間は社員二百人を超える企業の社長となったものの、経営方針に関して特に口出しすることなく取締役会に出席しているお飾り社長として十一年過ごしていただけの男だった。趣味もなく、友人と呼べる人間は常務の木野ぐらいだったが、木野自身、その裏では佐久間の退任を早めるべく取締役会の総意で近づいてきただけの仮のものだった。
木野が始めた佐久間へのアクションは単純だった。趣味がないんですよ。何かいいのありますかね?趣味のないふりをして佐久間に近づいた。木野は海が好きで、親から譲り受けたクルーザーで夏は葉山へ出かける週末を手にしていた。それ以外にもフィルムカメラ、デジタルカメラ、レンズ併せて百を超える写真好きでもあり、毎年個展も開いていた。ワインにも精通し、月に一度自宅で友人を招きホームパーティーを開くほどだった木野は、趣味に関して佐久間に聞く必要は微塵もなかった。
しかし、修行も大事だという親の意向で出向させられた佐久間のショッピングセンターで、普段は魚肉関連の惣菜コーナーを管轄し、新規メニュー開発を任されているだけの平らな毎日を過ごしていた木野にとって、佐久間を手中に収めることは仕事とはいえゲームそのもので、童心に還ったといってもいいほどだった。酒、女、博打、分かりやすいところから攻め、思いつくものを玉手箱のように差し出した木野は、そろそろ佐久間の行動から実感が欲しくなっていた。しかし、木野の思い通りに佐久間が反応することはそうそう無く、反応の薄さに何度も歯ぎしりをした。
想像以上の佐久間の反応の薄さからある日木野は佐久間との酒の席で思わず感情をぶつけてしまった。
「佐久間さん、つまんないでしょ?そんな趣味もなく毎日過ごすってどんな感じなんですか?」その答えは木野の肩を撫でるようにスルリと抜けた。「楽しいですよ!」同じく少し高揚した佐久間はフッと笑うだけだった。その笑顔の横にあるものを木野は探ろうとしたが、見つけたのは他愛もない抜け殻だけだった。
木野にとってその会話は楽しく、愉快で仕方なかった。楽しんでいる意味は単純で、そんな佐久間との関係の中、情報、状況を取締役会に逐一報告し、ゲームの最後を待つだけに他ならなかったからだった。
個の人生として今までを振り返れば、他人から見れば恵まれた環境に置かれていたとしても、当の本人にいわせれば平凡でしか無いこの四十八歳の佐久間にとって家族と呼べるのは、父が亡くなってから痴呆が始まった母と、妻と娘だけだった。病院に預けた母の身の回りの世話を任された妻にとって、季節に一度見舞いに行く程度の夫への愛情はすでに殻のみとなっていた。
美しい女性。まさに佐久間の妻はその類にあった。彼女の過ちは二十四年前に遡ることになる。
娘にいたっては中学二年の秋から六年間、口を聞くのは誕生日の時だけだった。その時に「ありがとう」という娘の言葉はとても平たく、温度も湿度もなかったが、その言葉は父娘を繋げる唯一の言葉だった。父親としての佐久間には年頃の娘と父の関係などさほどの重さも感じ無いその程度のことだといった六年間だった。
娘はフランスと日本のハーフであった母の容姿も受け継ぎ、目鼻立ちのはっきりした顔立ちだった。性格も母に似て聡明で活発。求心力があり、男女別け隔てなく友人の多い二十歳の女性になっていた。母の卒業した私立の女子大で三年目を迎えた春だった。
つまり、例え佐久間が窮地に陥ったとしても、手を差し伸べてくれる人物はこの世には存在しなかった。
強制的に佐久間の填った落とし穴の代償は生命保険の契約という形で決着を迎えることとなった。しかし、契約日の前日、その正午、佐久間は一本の電話を掛けた。震える指先は何度もナンバーキーを押し間違え、五度目に初めて目的の相手の携帯電話を鳴らした。何度も繰り返されるコール音は遠くの星に掛けているような気さえしてきた。例え何度コール音が響いたとしても電話を掛け直すという行動は佐久間の頭の中には皆無だったし、この電話が自分が生き残る最後の手段だと感じていた。コール音が繰り返されるたびに、眉間のシワは深くなり、掌の汗は溢れ出し、悪寒とも違う寒気が皮膚を走り、爪の間に何かが染みこんでくるような錯覚を感じていた。相手に繋がったその回線は二分後には途切れ、深く息をしたと同時に胃液が床に飛び散った。
佐久間が最後に選んだ道は、人の道を外れたというよりも、人ひとりの人生を大きく狂わせ、元には戻ることのできない、ただ単に保身のみを選んだ道だった。結果、佐久間は本当のひとりになった。佐久間の選択は自分自身をただ人の形をしているというだけの動物へと変えてしまった。
佐久間は娘を売ったのだ。
二
空の色が見える。夏の名残が空の色を染めていた。夏はまだまだ秋にバトンを渡したくないらしい。
トウヤは昨夜遅くまでかかり制作したプレゼン用のカラー出力を眺めていた。来年の秋、目黒に新しくオープンする複合ビルのブランディングだ。デザイン会社から独立して四年、今までにない規模の仕事が始まった。この仕事を獲得するためアシスタントと連日徹夜でコンペの提出物をつくってきた。その結果競合八社との戦いを勝ち抜き、クライアントの心を掴んだ。トウヤは今までにない充実感を晩夏の風と一緒に感じていた。
ディスプレイの横で携帯電話がヴァイブレーションをしながら小刻みに踊っている。意識の外で携帯電話を取った。発信相手は非通知と表示されている。非通知の電話を最後に取ったのはいつだろうか。灰色のイメージを無意識に思い浮かべながらトウヤは携帯電話を見た。あてにならないカンを脳の崖に貼り付け、いらないものとして、クライアントからの電話を待っていたトウヤは、事務所から見える神宮球場を見ながら通話ボタンを押した。
「片瀨です」その返答を待つ無音の数秒間が、「もしもし」と続けさせたが、その言葉を押しのけながら低くハスキーな男はいった。
「タミオに代わる」
代わって電話に出た男の声と距離の空いた古い友人とが結びつくのに少しの時間が必要だった。
「…………トウヤか?……すまねーンだけど………、ちょっと助けてくれぇい……」
その声は確かにタミオのものだったが、彼から一度も聞いたことのないフレーズに小さな石が一つ転がった。言葉は四年のすき間を更に広げた。タミオはトウヤと知り合う前から白線の上を自分のルールに従い自分を生き、そして進んでいた。そのルールに従い人を傷つけ、人に傷つけられていた。そのタミオから久しぶりの電話は申し訳なさが先立つ言葉をほっそりと伝えたに過ぎない。
「悪ぃーんだけど………俺も連れもヤバめでさぁぁ………。マジすまねーんだけど………助けてくれねぇかなぁ?」
プライド高い悪友の思わぬ言葉にトウヤは焦った。灰色はもっと色濃くダークグレーになった。
「どした?」状況を確認する言葉は一拍おくための空白を必要としたからだったが、そんなものは必要ない状況だと女の叫び声が電話越しのトウヤの耳に届いた。女の声もその後ろから聞こえる数人の怒号もその合間に聞こえてくる古い友人の声も必要のない音だった。しばらくすると静かになり最初の男が電話口にあらわれた。
「千五百万用意しろ。何日待ってもいいが友達も怪我してることだし、な。場所は新宿に着いたら教える。東口に着いたら電話しろ」
「ーーーー、番号は」
「冷静だな。その調子」
その男の声はハスキーさを殺し優しくいった。
「一時間後連絡する、準備をしとけ」
トウヤの返事を待たずに電話は切れた。時計を見た。午後のワイドショーの時間だ。テレビをつけるといつもの顔がテレビの液晶画面に映っている。幼稚園から帰宅する子供の声がいつものように聞こえてくる。今日は友達を連れて帰ってきたようだ。これから何をして遊ぶのか。何食わぬ顔をしていつもの日常がトウヤの肌を纏った。しかし一分足らずの電話にいつの間にか夏も秋も関係ない場所に連れて来られた、とトウヤは思った。
冷静になれないときは、酒、それがトウヤのルールだった。冷蔵庫を開けると六本パックの紙の中に一本のビールが所在なげに残っていた。トウヤは事務所の天井を見ながらプルトップをあけた。一口泡を感じながら意味のないこの行為に心の中で苦笑いした。手に携帯電話が無いことに気がつき辺りを探すと、冷蔵庫の上にそれを見つけ、今度は唇をあからさまに歪め苦笑いをした。時計を見ると一分しか経っていない。
遅い昼食に出かけたアシスタントに電話をかけ、ビールを買ってくるように伝えると、アシスタントは疑問符を声に乗せ「わかりました」とだけいい、電話を切った。三十分で落ち着くためにはビールでは役不足だ。冷凍庫で霜が降っているグレイグースをグラスと一緒に冷凍庫から取り出し、大きめの氷を二つ放り込むと事務所の真ん中に置いてある四畳程の広さのテーブルにボトルとグラスを並べた。普段「作業台に余計なものを置くんじゃない」とアシスタントに言い続けている自分を少し叱咤ながら、とろりとグラスにウォッカを注ぎ、眺めて少しだけ落ち着きを取り戻していた。
タミオと最後に会ったのは。その後の連絡は。今の状況は。さっきの状況は。冗談。悪戯。一つずつクロスワードを埋めるようにトウヤは自分の問いに真剣に答えていった。しかし埋まらない単語が山積するだけだった。
アシスタントが帰ってきたのは数分経ってからだった。
「えっ、どうしたんですか?」
ビールを買ってくるように伝えたことより、昼間からウォッカをロックで飲んでいる雇い主の姿に思わず出た言葉のようだ。返事を待ちながらトウヤにゆっくりと領収書を手渡した。「何でもない」と言ってみたものの、その言葉は余計怪しいだけだな、そう思いながら当たり前のように冷やされたアルコールを喉に送り答えた。
「急用が出来たからちょっと出かけてくる。ヤマノタニホールディングスの井川さんから連絡が来るはずだから、修正があったら対応しといて」
「わかりました。戻りは何時ぐらいですか?」
「んーー、用件次第ではノーリターンかな。何かあったら連絡して」
「はい」
その返事はいつものように清々しく、しっかりしていた。
トウヤの下に就いて三年半、ナナミは本来アシスタントが請け負う以上の仕事を任されていた。彼女はもう一人でやっていけるだけの力とセンスを持っていた。トウヤが独立を勧めたのはひと月程前だった。デザイン力だけではなく、気が利き、まわりを見渡せる。何よりもクライアントの先を考えられる数少ないデザイナーの一人だ。しかし、「もう少し勉強させてください」と、ナナミは独立話をそっと引き出しの奥にしまい込んだ。
トウヤはビールのパックを冷蔵庫にしまおうとするナナミの首筋を見ながら、打合せの相手を告げずに出かけるのは初めてだな、と思った。椅子に浅く腰をずらし長く息を吐くとゆっくりと天井を見ながら今度は、小さく息を吐いた。腰を深く戻し背もたれに身体を委ねると、Tシャツと肌の間には湿った空気が溜まっていた。ウオッカのグラスを持ちデスクに戻ると、何かあった時のことを考え簡単なメモと会社の通帳、印鑑を入れた封筒を用意し、表に「ナナミへ」とだけ書き、引き出しの一番上にしまった。今夜か明日か、いつかこの封筒を笑ってみられればいいが。嫌な予感はティッシュで拭えるものではない。拭けばにじんで広がるだけだった。
机の上の携帯電話がヴァイブレーションで揺れた。トウヤは慌てて着信表示も見ずに電話に出た。
「はい」
「準備はできたか」
「はい」
二秒の空白の後、電話は切れた。それが新宿に向かえという意味なのだろう。用意していた次の言葉は声帯を揺らすこともなく飲み込まれた。携帯電話には発信番号が残っていた。その電話番号とタミオの名を書いたポストイットをディスプレイに張り、襟シャツを片手に席を立った。
「後、よろしく」
「はい」
そういったナナミの笑顔は、トウヤには自分が平常心でない事を気づかせた。
「何かあったら、俺の机の引き出しを見て。一番上のヤツ」
「………何かって、………何ですか?」
「いや、何でもない。行ってくる」
「あの、来週でもいいので、ちょっとお時間もらえますか?」
「いいよ。独立の件?相談にのるよ」
「その話とはちょっと違うんですけど………、よろしくお願いします」
「例の鮨屋行こうか?最近うまい寿司食ってなかったし」
「ホントですか?嬉しいぃ」
「じゃ、行ってくる」
「いってらっしゃい」
視界の端で確認したナナミの表情は、やはり目だけがいつもと違うちぐはぐな笑顔だった。
電車に揺られる気持ちにはなれず、ビルを出て車道の反対側へ渡りタクシーを拾った。妙に明るい黄色い車体と奇妙な丁寧さの運転手がシンクロしていた。座席に身体を預けてトウヤは気がついた。きっとナナミは鞄も持たずに出かけた事を不思議に思っているだろう。運転手に行き先を告げ、携帯電話のアドレス帳を開き久しぶりに確認した名前にカーソルをあわせ、メールを打ち始めた。
[今から新宿に行く用事が出来た。今晩一時に電話する。その電話がなかったら、警察に行って俺を捜してくれ]
メールを送信し終わると四谷四丁目の交差点が見えてきた。街ゆく人達は楽しそうには見えなかったが、今の俺よりは幸せだろうな、とウィンドウを少し下げた。排気ガス混じりの風は思いの外心地よく、トウヤの現実を引き離した。
トウヤがタミオと初めてあったのは二十一の時だった。専門学校を卒業し、フリーランスのイラストレーターとして日々仕事をこなす毎日をトウヤはおくっていた。オファーのある仕事は全て受け、絵を描いて生活できる事を幸せに思っていた。ギャランティは区々だったが不満など微塵もなかった。その年の夏は猛暑で、エアコンの室外機は室内をクールダウンさせる変わりに外気の温度を上昇させていた。熱帯夜が四日続いた夜、トウヤは事件と共にタミオと出会うことになる。
企業の新商品をアピールするために企画されたキャラクターデザインの仕事を納品し、軽い打ち上げを開いてくれたクライアントの誘いで恵比寿の小料理屋に行った。トウヤは仕事を終えた安堵感をビールで更に溶かした。終電まで残り一時間となった頃、カラオケの誘いを次回に持ち越し、会は散開した。
JR恵比寿駅を目指していたトウヤの前を二人連れの女性が同じく駅に向かって歩いていた。一人は少し酔っているのか、足取りが不規則だ。その二人の三十メートル向こうから、若いサラリーマン三人組みが並び「次行こうォッ!もうイッケンッ行っちゃおう!ついでに課長を蹴っちゃおう!」と千鳥足の同僚風情を真ん中に両端の男達が肩を担いで向かってくる。このシチュエーションにトウヤは徐々に身体に溶けつつあった酔いが幾分覚めた。
二人の女性は道端によけながらサラリーマンを敬遠しようとしていた。その行動に気がついたサラリーマンの一人は、酔っているのか酔った振りなのか、担いでいた男を放りだし、脚をふらつかせながら女達に近づき「どっこ行くのぉー」と、ゆるめたネクタイに手をかけながらちょっかいを出し、行く手を塞いだ。「家に帰ります!やめてください」そう小さくいいながら足早に逃げようとした女の腕をつかみネクタイ男は「待てよッ」と引き寄せ後ろから女の胸をあからさまに掴んだ。左の胸を引きちぎるように揉み、引っ張りながら首に右手を回した。女の胸元から水色のブラウスのボタンが飛び、下着が露わになる。「ィヤツッ」力無く漏れたその女の声と、もう一人の女が振りかざしたバッグが男の背中を叩きつける音がシンクロした。
「いっっってぇーなぁ」
ネクタイを更にゆるめたサラリーマンは言葉ではなく目で凄んだ。バッグの女はブラウスの女を庇うように立っているが、おびえた表情だった。トウヤは立ち止まっていた。選択肢を並べ悩んでいた。駅前の交番まで百メートルを走る、男を宥め女を逃がす、若しくは戦うかだ。千鳥足だったサラリーマンはガードレールへ崩れ段ボールと同化している。もう一人は止めるでもなく、便乗するでもない風情で状況を眺めている。
「やめなよ」
思わず悪戯をしてしまった子供をあやすようなその優しい言葉は、ゆっくりとネクタイ男に近づきながらいったトウヤのものだった。
「あん?ガキはさっさと家へ帰れぇえ。大人の話に顔つっこむなっつーの」
「どっちがガキなんだか」
トウヤは優しい顔で挑発しながら相手がどうでるか待っていた。喧嘩にならなければいいとは思っていたのは確かだが、心の何処かでは荒事を望んでいた。集まりだした野次馬が笑みを浮かべている。
「んだとぉ」ネクタイの男は、大根役者のノリだった。
「駅の交番わかりますか?そこに行って呼んできてください」
ネクタイ男の言葉を無視したトウヤの提案に頷いたバッグの女は身体の固まったブラウスの女を引っ張り駅へ走り出そうとした。一瞬早く傍観していた男の手がブラウスの女の髪をつかみ引き寄せ、間髪入れずにブラウスを左右に引きちぎった。叫び声をあげたのは女二人同時だった。
一番望んでいなかった選択肢を選ばなくてはいけなくなったなこの状況を憂いながらも高揚したトウヤはネクタイの男を突き飛ばし、女を羽交い締めにしている男の背中から髪を掴み左へ倒すと右肩に肘を繰りおろした。
「おつっ」
変わった言葉を吐き出した男は思わず女を手放した。ブラウスの女はつんのめり転げそうになったが、バッグの女が抱き寄せる。トウヤは顎で交番へ行くよう即した。
「ウシロッ」
その誰かの声に振り返る前にトウヤの背中に何かが当たった。鈍い違和感は瞬く間に痛みに変わり、右の肩胛骨を覆った。すでに集まり始めた野次馬がさして緊張感のない冷静な口調で「痛そう」「やばいんじゃない?」それぞれ感想を述べている。酒と興奮で顔を高揚させたネクタイ男は一メーター以上の角材を手にしていた。その男の後方には来週新装オープンのラーメン屋の黒い看板があり、その店先には角材が数本立てかけられていた。
「それ、反則でしょ」思わず出た言葉に路上の喧嘩に反則なんてものはないか、とトウヤは心でつぶやいた。「ウシロッ」と危険を知らせた男の声を思い出しながらネクタイ男のネクタイを掴み力一杯引き寄せ、男の顔の中心に自分の額を埋め込んだ。
「グォロッ」
男の声より一瞬早く鼻骨の潰れた音を確かに感じた。倒れたまま手で顔を覆い小躍りしている男と、交番へ走る女の背中と、右肩の痛みをを確認した。もう一人の男はジャケットとネクタイを脱ぎ捨てたところだった。酔っぱらった野次馬が囃したてる。ネクタイの男が手放した角材を拾い上げ、トウヤはいった。
「もうやめない?その人怪我してるし」
ジャケットを脱いだ男が笑いながら答えた。
「そんな棒を持って言ってもなぁ」
確かにそうだ。トウヤは角材を捨てた。戦う意志のないことを伝えたかった。だが相手にとって、ガランと音を立てアスファルトに落ちた角材の音は始まりの合図でしかなかった。身体を屈めその体制のままトウヤの腰に向かってタックルをした。男の動作は真似ではなく、レスリングのそれだった。トウヤの身体は持ち上げられ、そのまま花屋の閉じたシャッターに叩きつけられ、足を掬われると背中から床に落ちた。痛みに身体を丸め転がったトウヤの背中は無防備になり、革靴で何度も蹴られた。観戦者の中から悲鳴にも似た声が漏れる。何度も蹴り続けた男は疲れたのか足を止めた。両腕を膝におき上半身を支え肩で息をしている。一拍おくと上半身を起こした。
「まだまだぁ」
男は後ろに高く足を振り上げた。たまらず出したトウヤの右肘が男の軸足の膝下にあたり革靴の動きが止まった。ピンポイントのヒットに男は膝を抱え尻餅をついた。トウヤは立ち上がり、右足で見えないゴールフェイスへ向け男の側頭部をボレーした。ふらついたトウヤの背後には手に持った角材を振り上げ、鼻血でシャツの胸元を円状に真っ赤にした男が立っていた。、その姿はまるで日の丸のシャツを着た日本応援団のようにもみえた。男は大声を上げ、トウヤに向かっていった。トウヤが男に気がつくと同時にさっきの男の声がした。
「こっちはもらった!」
ジャリッ。チャリッ。金属の揺れる音が聞こえた。二重に濁点のついた音が三つ気持ちよく続き、トウヤの足下に日の丸男が倒れてきた。男はそのまま動かなくなった。
「あれ?もう終わりかよー」
そのまま動かなくなった男を見下ろし、つまらなそうにそういってタバコに火をつけながら笑顔でトウヤに近づいてきた男がタミオだった。金属の音は重量感のあるネックレスとブレスレットだった。
「スッキリしねぇな」
その言葉の背中に警察官が三人立っていた。
酔いつぶれ、段ボールの山に埋もれていたはずのサラリーマンはいつの間にか姿を消し、重傷を負った二人の男は救急車で運ばれ、襲われた女二人は、「今度お礼を」といいながら名刺を残し帰路についた。トウヤとタミオは交番で事情聴取より長い時間、過剰防衛についての小言を繰り返し聞くことになった。トウヤは身体中に感じる痛みを引きずりながらもタミオの誘いにのって渋谷で飲み直し、朝までたわいのない話を続けた。二日酔いに抱きしめられ目覚めた翌朝、トウヤがハッキリと覚えていたのは、タミオがヤクザだということだけだった。
